【常識】
一般に学問的知識とは異なり,普通人が社会生活を営むためにもち,またもつべき意見,行動様式の総体をいう。これは経験の集積からなることが多く,時代や場所や階層が異なれば通用しないものもあり,多分に相対的なものである。本来は,「共通(一般) 感覚」の意。アリストテレスは視,聴,触などの相異なる感覚を一つの対象に結びつけて意識させる「すべての感覚に共通な部分」をいった。近世初頭デカルトなどは,これをより積極的に万人が共有する真理感覚と解し,良識 (ボン・サンス) と呼んだ。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 https://kotobank.jp/dictionary/britannica/
私は「常識」が嫌いです。正確にいうと、「常識」を正義とする人や意見が苦手です。
なぜなら。偏屈だから(笑)というのは半分冗談で。正確には、「常識」という大多数の意見で悲しい思いをすることが多かったから。ま、今も変わらないんですけどね。
常識を疑うようになってずいぶん楽に生きられるようになってきました。
【情報化社会】情報の波に溺れる
情報化社会と言われる現代、多くの人が日々溢れかえる情報を手にしながら生きています。
しかし、本当にそうでしょうか?あなたは、ご自分の欲しい情報を的確に得られていますか?
誰かの発した情報を、新旧・真偽を疑うことなく自分が求めている情報と錯覚して受け止めていませんか?
情報の入れ替わるスピード
10年ひと昔、という言葉があります。現代だと3年ひと昔、でしょうか?1年前の出来事でさえ大昔のような気がしています。
それだけ、世の中の廻るスピードが早くなった、ということでしょう。変ですよね、1分1秒の長さは太古の昔から変わることなく、1日に太陽が2回昇るようになった訳ではないのに。
現れては消えていく情報。3日前の大事件でさえすぐに忘れ去られる。川崎市登戸駅で起きた殺傷事件から、まだ3ヶ月も経っていないのにずいぶん前のような気がします。
溺れるほどに溢れる現代の情報
時間の流れが早くなったように感じるのは、何故でしょう?決して時間が早く過ぎている訳ではないですよね。
きっと情報が多すぎて、考えている間にもう次の情報が流れてくる。そして前の情報は忘れ去られていく。これが大きな原因ではないかと思うのです。では、何故、こんなに情報が早く流れるようになったのか?
言うまでもなく、インターネットの発達が大きな要因ですね。
インターネットの普及していなかった頃は、主な情報収集ツールはテレビ、新聞、ラジオ。他に週刊誌、雑誌など。
テレビやラジオは、まぁまぁリアルタイムですが、新聞は1日〜2日遅れの情報。ゆっくり流れてきますし、自分で取りに行かないと情報を知ることはできないので、溢れかえるほどのことにはなりません。
ネットニュース、SNS、動画配信サイトなど、どこにいても見られるテレビのように、望まない情報もどんどん流れてきます。自分を主体にしなければ情報に溺れてしまいます。
それが今や。インターネットが発達、情報を得るツールも、パソコンからスマートフォンに主流が移り変わり、スマートフォンを持つ誰もが、どこにいても多くの情報を浴びるように得ることができるようになりました。
でも。それらの多くの情報を、みんな自分の意思で取捨選択しているのでしょうか?
情報を疑え!!
情報を鵜呑みにしていませんか?
テレビで取り上げたことを正しいと思う。
これはよくあることですよね。テレビで話されたことは本当だと信じ込む。
それ自体を悪いこととは言いません。ただそれでは、声の大きいものが正しい、ということと何ら違いはありませんよね。
そして、その全国ネットで大きく言われた情報は正しいのだと思い込むこと。それを多くの人が信じたり実践すると、やがて常識となり、異論を唱えると常識外れの人、という扱いを受ける。
でも。本当にその常識は正しいのでしょうか?トンデモ常識も含まれているのではないでしょうか?
情報を反対側から眺めてみて比較する
私は、元々疑い深い部分があるので、人から聞いた話を鵜呑みにはしません。自分も他人もイマイチ信じていないので、自分が見たもの聞いたもの、自分が騙されても納得できるものを信じています。
なんとまぁ面倒くさい性格なんでしょうね(笑)
ですから、気になる情報があれば必ず他の情報と比較します。なるべく公式情報など、公のものを調べます。
まぁ、公文書が書き換えられたり棄てられたりしている現在の政治は信じられませんが、それでも、なるべく公的資料を探します。今はネットで見られる便利な世の中ですからね♪
そして、自分なりに納得したものを人に話したり信じたりしています。
それで騙されても、自分の知識が少なかっただけ、と納得いきますし、公的資料が嘘なのであれば、それは私も騙されていた、という結果ですから。
自己責任、自己防衛のための分析
まぁこの行動は、営業事務で培った、クレームにならないための自己防衛行動なのですが。
丸呑みして信じて、後から『騙された!』と思うとか、第三者に嘘を伝えてしまう、とか。そういった行為をなるべく発生させないようにしているだけなのです。
人間、素直なのがいちばんですが、少しだけ疑ってみても良いと思いませんか?
【常識と非常識】答えは自分の中にいつもある
私の好きな、宮沢和史さんの歌で『愛は私の胸の中』という曲があります。
あちこちを探し回って、やっと『愛は自分の中にあった』ことに気がついた。というような内容の歌です。
一度は流されてみるのも良い
自分の求める答えは、自分自身がいちばん良く知っているはず。でもそのまま、自分の求める答えだけを求めていたのでは、視野が狭くなり、新しい情報が入って来ません。それは、この情報過多な社会ではもったいないこと。
気になる情報なのであれば、軽く流されてみるのも良いと思います。
ちょっと信じて、コレは違うぞ?と思ったら『 やーめた』って捨てる。そんな軽いノリで情報を収拾するのは色んな世界が見えてきて、意外にも楽しいものです。
でも、決して鵜呑みにして信じ込まないようにね!自分で見たもの、聞いたものが1番確かなのですから。
取捨選択しているうちに、徐々に自分の意見がまとまって来るのが分かります。そうなると、もう流されることはありません。
自分の中から湧き上がる疑問
情報に溺れなくなると、色んな疑問が湧き上がるようになります。そして、自分の求める情報が欲しくなる。
その中からまた取捨選択していかないといけないのですが、答えが自分の中にあれば、他人に流されることが減ってきます。そして欲しい情報が確定すると、もう溺れることはなくなります。
疑問と解答、それを自分の中で繰り返すことで、自分自身の意思が固まっていくのです。
大多数という常識に流されない強さ
この国では、大多数の意見が正しい、という場面がとても多いです。最初に書いたように、声の大きいもの、公共の電波で発せられたものが常識として定着することも少なくありません。
ですが、果たして本当にそれでいいのでしょうか?
時代と共に常識は変化します。極端なことを言うと、戦時中、敵を殺すのは正当な事でした。ですが、戦争が終わればそれは決してしてはいけないこととなりました。
でも、それはそんな昔の話ではないのです。
世の中に流されずに生きることは、気楽そうに見えて意外と辛いものです。
それでも。自分自身を信じて、自分を裏切らないよう、自分基準で情報を取捨選択し、常識と非常識も取捨選択してみませんか?
きっと、少し身軽な自分を感じられることでしょう。